みなさんこんにちは。
起業ひふみ塾の愛です。
今日は、わたしのプライベートな体験をシェアさせてください。
先月の記事でもお話ししましたが、
わたしは、今年の3月に父を看取りました。
「その際、どんな風に「起業塾」が助けてくれたのか」はこちらの記事から。
ワンオペ介護、看取り、子育て。乗り越えられた理由は。
母も10年前に亡くしているので
実家を手放すことになり、
カナダから父を看取るために里帰りしていたわたしは
帰国までにあらゆる手続き、片付けに追われ、
怒涛のような日々でした。
そんな中で、一番悩んだのが、
10年前に亡くなった母の形見のパッチワーク。
団地住まいでお布団&押し入れ生活だったのに
母は、巨大なベッドカバーを何枚も作り上げた。
チクチクと、何年もかけて。
それらの作品は
狭い団地→マンションでは
お披露目されることもなく、
(時々ムリヤリ壁に飾ってましたが、、、)
母が亡くなった後、ずっと天袋で眠っていました。
いよいよ父が亡くなり、実家を手放す段で、
「どうしようか…」と悩みました。
大物の数々ゆえに、カナダにも持っていけない。
だからと言って、ゴミに出すのも忍びない。
そんな時、ひふみ塾の村長、秋田稲美さんが
わたしを元気づけるために、うちに遊びにきてくれました。
そして、母の大作を一目見て言ったんです。
「これ、宝物だよ!!捨てるなんてとんでもない!!」
小さい頃
母が団地の居間で針を通してる姿はよく見てたけど
あまりにも当たり前の風景で
「お困りもの」となってしまったその「大作」を
じっくり見つめることはそんなにありませんでした。
けど、よくよく見てみると
ほんの数センチの小さな小さな布を切って、
数ミリ単位で縫い合わせて、一つの絵にし、
またその絵同士を繋ぎ合わせて…。
チクチク、チクチク、真っ直ぐに
飽きることなく、同じ長さと歩調で
何年もかけて、生み出してきた
そこに 母が込めたもの
その時 母が感じていたこと
インターネットもスマホもネトフリもなかった時代
今のわたしより若い母の その手仕事…
母がパッチワークをしてた頃
ベッドなき団地とマンションで何年も眠っていた
それらは今、岩村のひふみ本社のゲストルームに送られました。
ゲストルームのベッドとフローリングを飾り
やっと、やっと、
「お仕事」することができたんです。
(ついでに、母の木彫りの姿見も。)
ああ、息を吹き返した。
モノもヒトも、
その命を生かせる場所に歩いていけたなら
その才能を使って、幸せに「奉仕」できる。
そうでなければ
「ゴミ」と呼ばれたり「役立たず」とされたり。
でも本当は
どんなモノも、どんなヒトも
命を生かせる「場所」が必ずあって
とにかく 何よりも優先して
そこに辿り着くことに、全力を尽くした方がいい。
母のパッチワークも
同じようにお引越しさせてもらった父の本棚も
そのように、稲美さんや、お仲間の
目と手と足と心によって、岩村という「場」に運ばれ
生きている。
父の本棚も解体して仲間が運んでくれました。(写真に入りきらないほど大きい。。。)
ひふみ塾は、「起業塾」です。
毎月50以上の受け放題クラス、部活、イベント、
各地でのリアルな集まり、お祭り、フォーラム、
十分すぎるくらいの「コンテンツ」があるけれど
一番オモシロイくて、他にないのは、
「人と人との関係性」の中で
何かが起きていく、為されていくこと。
毎日のクラスや、部活やイベント、
学び、遊び、仕事の中で
それぞれが、それぞれと、繋がって
「自分を活かせる場所」を創っていく。
そんな場と場が、また繋がって
新しい何かが生まれていく。
名付けえないことが
毎日、毎瞬間、起きていて、
その「起きていく」力と、「つながる」力を、育てること。
共にオモシロイ未来を創造していく力を、育てること。
それこそが、
「最強の生きる力≒起業する力」
だと思うんです。
岩村で、仲間達と。
日本の両親を亡くし、「実家」は無くなったけど
ひふみハウスが、
ひふみのみんなが集う「岩村」が、
わたしの実家の一つになりそうです。
(そして、世界中の仲間が暮らす場所も。)
お庭で。女達が語ってる間に男達は肉を焼く…
働くことはもちろんだけど、
生きることが、もっと楽しく、愛おしくなる。
岩村&ヒフミ村いいとこ、一度はおいで。
ひふみハウスがある、岩村の城下町。
ひふみ村広報 愛より愛を込めてお届けしました。